当山は高幡山法華寺と号し、江戸時代の正保3年(1646)、今から370年程前に建立された、紀の川市にある日蓮宗のお寺です。
開基 慈眼院日眼上人は、紀州藩徳川家家老であった三浦家の菩提寺、了法寺の第4世です。
三浦家の領地であった、貴志庄北山村に一寺建立を願われ、元は近隣にある観音山に存在した古寺を現地に降ろし、寺号を高幡山法華寺としました。
開山である慈眼院日眼上人が、法華寺を開く際に併せて開眼された観音さまです。「法華寺の観音さん」として地域の方々に信仰されています。
片膝を上げ、そこに肘をかけて指先を頬に当てている「思惟」のお姿です。
如意輪の「如意」とは、意のままに智慧や財宝、福徳をもたらす如意宝珠という宝の珠(玉)のことで、「輪」は煩悩を打ち砕く法輪を示しています。その2つを手に持った観音菩薩ということで如意輪観音といいます。
六観音の一つに数えられ、天界道に迷う人々を救うとされていますが、六本の手で全てに救いの手を差し伸べるとされています。
智慧、財福、福徳授与、安産、延命のご利益があるとされています。
日蓮宗は、鎌倉時代に日蓮聖人(にちれんしょうにん)によって開かれた宗派です。
当時の鎌倉時代は、仏教が正しく理解されず、悪い教えが広まって人々を苦しめる末法(まっぽう)という時代に差し掛かっていました。
天災(地震)や人災(戦)で人々が苦しむ理由、そして人々が生きることと死ぬことの意味を知るため、日蓮聖人はお釈迦さまが説かれた経典をすべて読まれました。
そして、お釈迦さまの真相とは、晩年8年間で説かれた『妙法蓮華経』に記されていると日蓮聖人は確信しました。
日蓮聖人は、末法の人々を救う良薬である『妙法蓮華経』を広める役目が自分にあると自覚し、法華経を心に受け入れ、「南無妙法蓮華経」(なむみょうほうれんげきょう)と唱え、人々を救うために実行する、と誓いました。
後に『立正安国論(りっしょうあんこくろん)』で人と社会の幸せを鎌倉幕府に訴えましたが、たくさんの妨害にも遭いました。
信者であった甲斐国(現在の山梨県)の地頭の招きにより、文永11年(1274)6月17日より鷹取山(たかとりやま)のふもとの西谷に草庵を構え、住処としました。
日蓮聖人は、これ以来足かけ9年にわたりひたすら『妙法蓮華経』を読まれ、門弟たちの教導に勤め、弘安4年(1281)11月24日には旧庵を廃して「身延山久遠寺(くおんじ)」(日蓮宗の総本山)を建築されました。
激動の時代に自ら立ち向かい、人々の救いとなるために命さえ惜しまなかった、まさに当時のスーパースターのようなお方でした。
今から約2500年前に仏さま(お釈迦さま)が説かれた教え、8万4千種類ものお経の中の一つ『妙法蓮華経』(法華経)というお経に、仏さまの真実・教えの集大成が記されています。
このお経には、仏さまは遠い昔から未来まで生き、永遠にあらゆるものを救いつづける、特に末法の人々を救う、と書かれています。
お経とは、沢山の登場人物からなる物語で形成されています。
過去・現在・未来の三世にわたって私達を救い導いてくださる、永遠(久遠)の命をもたれたお釈迦さまが描かれています。
皆さんは幼少時代に悪さをして「仏さんはちゃんと見てるよ!」と注意されたことはなかったでしょうか。
「身は無くなっても、ずっと見守っています。」それが私達が読むお経の中でキチンと記されていたのです。
私達の目に見えませんが、日々私達を見守ってくださる、永遠なる仏さまなのです。
私たちが読むお経『妙法蓮華経』というドラマチックなストーリーの中に、生きるヒントが沢山あります。
「悩みがない人なんていない」と良く言いますが、お釈迦さま、日蓮大聖人も沢山悩み、解決の糸口を探し続けました。
後世にまで遺してくださった生きるヒント(智慧)は時代を越え、現代まで受け継がれています。
私達が抱える悩みや社会問題に対して、仏さまの生きるヒントを当てはめてみてはいかがでしょうか。
ネットの情報は日々更新され、時に私達を迷わせることがあります。
そんな時代だからこそ、昔から変わらないお言葉は大変心に響きます。随時更新しているTwitterの中でも、お話しできたらと思っています。